彼と目が合うことはなかった。ただ、酒を飲み交わしていただけである。客は私と彼だけだった。お会計、彼は言った。それに合わせて、私も会計を済ませた。 もう明日になって三十分ほど過ぎていた。 店を出ても彼は一言も口を利かなかった。けれど、決して私の左横から離れなかった。ただ、何も言わずに黙々と歩くのである。私は、やはり何も言わずにただ見ていた。 この男は、何を考えているのだろうか。もう寒さが身に染みる季節になっていた。真っ黒ないでたちの彼は、街灯の燈る道で、そこだけがぽっかりと穴が開いたように見えた。 二本目の煙草の火が消えた時、彼は初めて私に目を向けた。「、」そうして、名前を呼んだ。「なあに?」私の返事に彼は別段興味を示さなかった。 ただ私の目を射抜くように見つめている。その目は驚くほど顕著に彼の心情を映し出していた。鋭い双眼は未だ私を離そうとしない。そうか、彼は私を求めているのか。 そう思うと酷く愉快で堪らなかった。所詮、彼も男だ。そんなことはとうに知っていたはずだ。 「十四郎知ってる?人って結構暖かいのよ」 私は口角をきゅっと持ち上げて、当たり前のことを然も珍しいことのようにして言った。彼はどう受け取るのだろうか。知っている、と彼は呟いて、当然の様に私の唇に触れた。 それは一度離れ、またもう一度触れると、止まることを忘れたように、何度も角度を変えて混じり合う。どちらからともなく離れた時には、銀糸の舞うのを厭わずに、ただ見つめ合うだけだった。 彼の腕は私の腰を抱き、私の腕は彼の肩に回されていた。大通りから漏れる街灯の光は私たちを照らすのに十分ではない。けれど、そんな暗がりでも彼はやはりぽっかりと穴が開いたようであった。 「、」彼は何かを求めるように私の名を呼んだ、彼の面持ちは少し悲しげで、けれどありありと物語っていた。ああ、やはり彼も男なのだ。こんなにもわかりやすい。 それは私に一種の快感を与えた。宿、とるか?と続けた彼に、私はなんで?と聞き返した。わかり切ったことを、私は敢えて聞いたのだった。十四郎はいや、と口ごもると、 一間ほど先に見える万事屋に目を向けた。そうしてからまた私の唇を奪った。身体中に這う彼の骨張った手は、決してやさしくはない。求めて、求めて、ただ純粋に獣の様であった。 私はそっとその手を追いやって、唇を離した。彼はまた懇願するような目を向けて、けれど私を見つめるだけで動こうとはしなかった。その姿はおねだりをする子供の様であった。 私はぐっと背伸びをして、敢えて彼の耳に唇を這わせた。彼は息を漏らす。「触っちゃいやよ。私、貴方のモノじゃないわ」彼は私の言葉に逐一びくりと体を震わせた。その姿に、ぞくりとする。 視界の端を電気の消えた万事屋が掠めた。彼は私の首筋に顔を埋めて何も言わない。「、」十四郎はまた私の名を呼んだ。諦めのつかないその手は私の腰に回されている。 私は彼の顎を攫んで私の方に向けさせた。彼の目はまだ求めている。吊り上った口角が下がらなかった。「ねえ、」攫んだ顎を持ち上げた。中腰の彼はそれでも何も言わずに私を見つめている。 ねえ、ぐちゃぐちゃにしたい?私の問いは彼に希望を与えたのだろうか?彼はずっと私を見たまま、うっすらと唇を開いた。 「ああ、したい」彼は真顔だった。その顔に、その声に、私は思いがけずぞくぞくした。もっと、私を求めてほしい。いっそ憎んでほしい。そうしてその憎しみを私にぶつければいい。 膨らむ憎悪に押しつぶされそうになりながら、私だけを掻き抱けばいい。殺したいほどの憎しみをただ私にだけ向けてほしい。 彼の目はまだ求めていた。私はその唇に口づけをしてそっと十四郎から離れた。一歩前にいる彼は名残惜しげに私を見つめる。私は彼に微笑んで、背を向けた。 「そう、ならもっとそう思えばいい」背後で彼がどんな顔をしたか知らない。ただ、私は何事もなかったかのように、銀時の元に帰るだけである。 |