こぢんまりとした古びた店内は薄暗く、驚くほどに静かだった。有線から流れる流行りの音楽と、客の捲る新聞の音だけが微かに響く。マスターはいらっしゃい、と無愛想に決まり文句を言ったきり、 何も言わない。は手近なカウンター席に腰かけると、改めて店内を見回した。まるで時代が戻ったような、昭和の匂いが消えない店内には、昼時でありながら客は数人しかいなかった。 「何にします?」マスターは水の入ったグラスを置きながら言った。やはり無愛想であった。はとりあえずカウンターに立てかけられたメニューを見やって、ナポリタン、と答えた。 一番に書いてあったからだった。本当はもう少しゆっくりとメニューを見たかったが、そうしてはいけないような気がした。要は、焦ったのだ。マスターはまた無愛想にはいと答えると厨房に入って行った。 思いのほかこの店のナポリタンはおいしかった。食べたこともないのに、懐かしいなどと思ってしまったのだ。最後の一掬いを平らげると、は満足げに唇を拭った。十二時半、時間はまだある。 コーヒーでも飲んで、もう少しゆっくりして行こう。来た頃と変わらず客は少ないままだった。扉のガラスには相変わらず賑わったカフェが映りこんでいる。はマスターに声をかけようと目を向けて、 そうしてすぐに顔を逸らした。来客を知らせる鐘がカランと軽い音を立てたからだった。軽快なその音は私の目を逸らさせるには十分であった。反射的に顔を向けた扉の先にいたのは、よく見慣れた、 けれども話したこともない、彼であった。 彼は私の存在に気付くと軽く目を見開いて、あ、と声を上げた。それから少し驚いたような面持ちで、ども、お昼休みですかと言った。私はその姿に咄嗟に反応できないでいた。 まさかこんなところで彼と会うとは思わなかったのだ。「え、ええ、そうなんです。あなたも?」我に返って答えた言葉にしては上々だと思ったが、少し味気ないとも感じた。会話は途切れなかったけれど、 あまりに無難な回答だったからだ。そんな私を気にすることなく、彼はもう落ち着いたようだった。そうなんすよ、と見た目に反して酷くさわやかな笑顔を見せた彼に、私もなぜかほっと胸をなで下ろしたのだった。 「そういえば、名前、俺水戸洋平って言います」出てきたナポリタンを食べながら、彼は思い出したように言った。そこで初めて私たちは名前を知らないということに気が付いた。 あまりにも毎日顔を合わせていたから、つい失念していたのだ。「あ、です。」私の言葉に彼はさんね、と反芻してにこりと微笑んだ。彼と話していて感じるのは、 硬い印象の割に、表情が柔和であるということだ。今も、とても優しい顔をする。そうして、実に話しやすい好青年だった。上げられた髪は一房も落ちることはなく、几帳面に固められていた。 上半身だけ脱いで腰で縛られたつなぎも、白いTシャツも、綺麗に洗濯されているように見える。そこから伸びる両腕は、無駄のない、しなやかな筋肉のついた働く男の腕だった。切れ長の目、 通った鼻筋、形のいい唇、誰が見てもかっこいい。つい見とれた彼の目が腕時計に視線を移すのを見て、はっとなっても時計を覗き込んだ。時刻は十二時五十分。このままでは遅刻してしまう ぎりぎりの時刻だった。「すみません、水戸さん、私もう行かなくちゃ!」慌てて立ち上がった私に、水戸さんはナプキンで口を拭いながら、引き留めてすみません、と申し訳なさそうに眉を寄せた。 それから、洋平で良いっすよと言って笑った。 |