私は、ただ茫然と外を眺めていたのだ。その行動に意味はない。敢えて言うのなら、多忙を極める生活の、ほんの一瞬の無駄な時間を貪ろうとしたのかもしれない。 昼食を済ませた後の怠惰な時間は、唯一の息継ぎの瞬間だった。エアコンとパソコンの稼働音だけが響く誰もいないオフィスが、私の心を落ち着かせる。だから、 目が合ったのは何よりも誤算であった。そこに人がいることもその人が上を向いていることも、私の予想をはるかに上回っていたのだ。思わず会釈をしたのは、 社会人としての長く身についた癖だろう。それは、彼も同じであったに違いない。2階のオフィスから見てもわかる、端正な顔立ちを優しく緩めて、男は会釈した。 男の目は酷く優しげだった。しっかりと固められた黒髪や、閉じられた薄い唇からは想像もできないほど穏やかで、そうしていて実に力強かった。その目元は記憶に深く刻まれるほど、 印象的なものであった。私はその日一日ただあの目について考えていたのである。気が付けば戻っていた同僚に珍しいと驚かれるほど、私は呆けていた。それほどまでに、 男の目が頭にこびり付いて離れなかったのだ。これは、何より私自身を驚かせた。そして一種の戸惑いにも似た不可思議な感情に苛まれた。私はいったい、どうなったのだろうか。 まるで雷に打たれたような面持ちであった。これが、私が彼を彼として意識した初めての瞬間である。 それから昼食の後は毎日のように窓の外を覗いた。すると毎回彼はそこに現れて、あの優しげな眼をして会釈をする。私もつられて会釈を返す。その繰り返しであった。 そうして、それ以上にはならない。ただ、一つわかったことがある。それは、彼がオフィスの道向かいにある車の修理屋で働いているということであった。道理で彼と目が合うわけだと、 その時妙に納得した。彼はよく、車の下から這い出てくる。 何故こんなことを繰り返すのか私自身にも到底見当がつかなかった。けれど、ただ見ずにはおれない衝動に駆られてしまうのである。それは実にむず痒く、焦燥感にも似た不快感すらあった。 しかしその不快感すら、幾許かの心地よさを湛えていた。あの目を初めて見た日から、もう幾分も月日が過ぎたような気がしたが、まだ季節すら変わってはいなかった。あれから、 ほんのひと月ほどの出来事であった。 |