教師はいまいち信用ならないが、それでも受験前にはお世話にならなくてはならない。第一志望の最終打ち合わせと称して呼び出しを食らったら、思いのほか 無駄話で盛り上がってしまった。まさか森先生が戦国史ファンだったとは、迂闊だった。くっ、とわざとらしく悔しがってみせたが、誰もいない廊下ではただ 虚しいだけだった。グラウンドから聞こえる運動部の声が、おまえバカじゃねえの?と言っているみたいで癪に障る。 3年棟の廊下はがらんとしていた。差し込んだ夕日で、しみだらけの汚い床が橙に染まっている。誰もいないワンフロアは、意外なほど広く感じた。それはどこか寂しげ で、けれど子を見守る親のように優しかった。どことなく漂う哀愁は、秋の終わり特有の匂いのせいかもしれない。眩しさに目を瞬かせて、階段を下った。 件の少女漫画のワンシーンを終えた踊り場は、今ではなんの感慨もなく生徒たちに足蹴にされている。ここであんなことがあったんだなあ、と急に思い出して、 あの時の山村さんの真似をして床を見つめた。目に映るのは、ただ汚い床ばかりで、面白くもなんともない。ただ、目を上げた時にふと、切ないような哀しい ような、それでいて優しさの入り混じった複雑な顔をした猿飛が見えた気がして、なんだか悲しくて堪らなかった。きっと、あの時の猿飛はこんな顔をしてい たんじゃないだろうか。それで、山村さんはやっとその顔の意味に気付いたに違いない。それでも10分の1もその意味を理解していないだろうけど、それで もいいと、猿飛は諦めたふりをするのだろう。それで、あんな歪な笑顔を見せたのだ。伊達の言った通り、あいつはバカだ。酷く器用で、けれど驚くほど不器 用な、バカ。


下駄箱は、まるでそこだけ置いてきぼりを食らったように薄暗かった。出口の前まで広がる夕日は、決してこちらを照らしたりしない。それは恰も私自身を彷 彿とさせた。端役がスポットライトを浴びることなど、ないのだ。古びた簀子が歩くたびにかたかたと音をたてる。革靴が小気味良い音を響かせながら玄関に 転がった。グラウンドからは運動部の片付けの音が微かに届いていた。サッカー部はゴールを動かし、陸上部はハードルを束ねている。そんな青春の1ページ を横目に、私は悠々と革靴でグラウンドを突き抜けた。下駄箱とはまるで違う世界のようなグラウンドは、思いっきり夕日を浴びて、鮮やかな橙に染まってい た。誰も彼も私の存在を気にする者はいない。そうして私も何も気にすることはなかった。私以外の全てがバックグラウンドなのだ。この一瞬だけは、私は主 役である権利を得たような気がした。変な高揚感の中、私は意気揚々と正門までの道を突き進む。そうしてふと、私にも主役になりたいなどという願望があっ たのだと感心してしまった。グラウンドのちょうど真ん中辺りで、思い出したように振り返った。視界の先に広がる校舎は、やはり全てを享受するように佇ん でいる。直線の先でたなびくカーテンが目に付いた。あそこは、私の教室だ。白いカーテンは前面に夕日を浴びていた。橙と言うよりは朱く、たなびく度に時 たま見える教室は煌々と照らされていた。突然、朱が蠢いた。そうして現れた橙は、朱の中にありながら何よりも目を引いた。猿飛だった。あの時と同じだ、 と呆然と考えていた。私はあの教室の中で、そうして猿飛がこの場所にいたのだ。猿飛もまた、窓に手を掛け、閉めようとしていた。けれども動きを止めた猿 飛は、やっぱりあの時と同じように、私を見つけたようだった。少しだけ、あ、と口が動いた気がした。こっちからはよく顔が見えるんだな、とふと思う。あ の時私は猿飛の顔がよく見えなかった。ただ振り返ったようにしか見えなかったけど、本当は違ったのだろうか。顔を上げた先の猿飛は、まだこちらを見てい た。そうして思う、彼が現れたから、私の主役は終わったのだ。


「猿飛、お疲れ!」


だから、ちょっと挨拶しようと思ったのだ。私の主役が終わったことと、彼の主役の始まりに。それに、こっちからはこんなに見えているのだから、挨拶し ないのもなんだか失礼な気がした。猿飛は可笑しそうに口角を上げた。そうしてちゃんも、お疲れ!と、意外にも大きな声で返してくれた。私はちょっと 嬉しくなって、元気そうでよかった!なんて叫び返すと、彼は笑ってこう言った。


「ありがとう、助かった!」


何が助かったのかはわからないけれど、猿飛は心底笑っているように見えた。ここ最近彼はいつ見ても苦しそうに笑っていたから、なんだかそれにほっとして、 私も顔が綻ぶのが分かった。くるりと踵を返して、正門までの道を歩む。その足取りは、主役の時より軽かった。やっぱり私に、主役は似合わないらしい。








語ろう、いまこそ真実を。



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