彼はビロウドのような人だった。病的なほど白いのに、しなやかで、艶めかしい。 細い白髪が猫のように揺れて、紫フレームの個性的な眼鏡は何故か理知的に見えた。柔らかな物腰と、少しニヒルな微笑みに、 街行く女性が皆振り返って見ていたのを私は知っている。そうしてその度に私は鼻が高くなった。 半兵衛はあまりまめに連絡をくれなかったけれど、会っている時はまるでそれが嘘のように私を愛する男だった。両手いっぱいの花束 を抱えてきたこともある。あれは、確か私の誕生日の時だ。インターホンの無機質な音に飛び起きると、半兵衛は然も当たり前 だと言いたげな顔をして、真赤な薔薇の花束を持って立っていた。私は心底驚いたけれど、それはそこに半兵衛がいたことにとい うよりは、真赤な薔薇の花が、あまりにも半兵衛に似合っていたからだった。ゆるく微笑んだ口元に、薔薇の棘に、少し赤らんだ頬。全てがまるで絵画のように見えた。 その美しさたるや、私は私の存在を恥じらうほどだった。 時々、本当に時々であったけれど、私たちは昼過ぎまで惰眠を貪った。高く上がった太陽が、カーテンの隙間から小奇麗な―と いうよりは生活感のない―彼の部屋を照らして、ふかふかのベッドで絡み付くように横たわる私たちを暖かく包み込んだ。その 時の半兵衛の眩しそうな顔、眠たげにしょぼつかせる眼、だらしなく開いた薄い唇。人前では決して見せないその怠惰な姿が、私 は純粋に美しいと思った。私たちはそのまま起きることはせずに抱き締め合っていた。彼の鼻にキスすると、半兵衛はすかさず私 の瞼にキスを落として、ゆっくりと這うように唇を滑らせ、そのまま頬を伝って唇を奪う。啄むような優しいキスに、私はくすぐ ったくなって彼の胸に顔を埋め、そうして肺いっぱいに半兵衛の匂いを吸い込んで満ち足りた気分になった。彼の匂いは甘くて、ほんの少し苦いのだけれど、 それが何よりも心地よかった。 私はいつでも彼に愛していると囁いた。細くて長い首に両腕を巻き付け、骨ばった胸元に顔を埋める。意外にも広い肩幅で、半兵衛 は宙ぶらりんの私を抱きしめた。私たちは愛し合っていたのだ。半兵衛は眼鏡越しに慈しんだ瞳を私に向けていたし、私は何よりも多くの時間、彼を眸に映し続けた。 もう七年も前の話だけれど、私は何一つ忘れていない。集中している時にこつこつと机を打つ、まるで女性の手のような細くて長い指の、その先の爪の形です ら、私ははっきりと思い出せた。私は本当に、心底彼を愛して止まなかったのだ。 ちびちびと啜るウィスキーが全身に染み渡るころ、私はそんなようなことばかり考えていた。有線から流れる懐かしの洋楽は程よく耳に馴染む。この曲は、 果たしてなんだっただろうか。世界中の誰もが知っているであろうスーパースターの名曲のタイトルを、私は思い出せない。半兵衛の睫毛の一本一本ですら、 鮮明に思い出せるのに。 彼との別れは酷く唐突だった。私たちの情熱的な恋は、二年も経たずに穏やかで緩やかな何かへと変わった。私はそれでもいいと思った。ある種の惰性と 、怠惰と、傲慢さの中にあって、それは私の心にとても優しい諦めを生み出していたからだった。この諦めは何よりも心地よかった。少しばかりの不満など、 全く問題ではないかのように感じたのだ。 けれどもそれは私の独り善がりだった。だから、終わったのだ。 彼の言葉は優しかった。けれどそれはどんな鋭い刃よりも私を痛めつけた。心変わりの遣る瀬無い残酷さを私は改めて思い知ったのだ。 あの時、私は彼に追い縋ることができなかった。私たちは誰よりも情熱的であったし、ロマンティックであったけれど、それと同じくらい現実的で冷静であろうとした。 半兵衛に追い縋る私の姿を、私は想像できなかった。彼からの言葉を受け入れない理由も、私には思いつかなかった。彼は少しばかり寂しげな眼をしたことを覚えている。 そうして、ありがとう、と言った時の彼の唇の薄さも。 あれきり彼とは進んで顔を合わせることはなくなった。二年ほど前の同窓会で、挨拶を交わしたのが最後である。それは感動の再会というふうではなかった。彼はあの頃と 何も変わっていないようだったけれど、思った以上に私は冷静であったし、彼もまたそうであるように見えた。 ほの暗い店内で椅子を引く音がしては顔を上げた。目の前には佐助が少しバツの悪そうな顔をして佇んでいた。彼は遅れてごめん、と顔の前まで手を上げて、そのまま横 を通り過ぎるウェイターに、私のグラスを指差しながら同じものをと注文をして席に着いた。彼のオレンジブラウンの髪が妙に浮かんで見える。佐助はネクタイを右手で弛めて 、暗にそれは何杯目かと言いたげな目をした。私はそれに気づいたけれど、敢えて気づかないふりをしてウェイターを待った。手の中のグラスにはもうほとんど液体は残されていない。 佐助のウィスキーをウェイターが運んで来たときに、は同じものをと目で合図して示した。パリッと決まったワイシャツと黒のベストを着こなしたウェイターは、軽く頷 いて戻ってゆく。それを確認してから佐助は徐に口を開いた。 「とうとう明後日か」 「そうね」 佐助はグラスを傾けながら感慨深げに呟いた。優しげに垂れる目尻に、私も思わず微笑んで、氷の下に少しだけ残った薄くなった赤褐色の液体を飲み干した。 佐助とは二年前の同窓会で久しぶりに顔を合わせた。大学の頃はそれほど仲が良かったわけではない。けれど同窓会で、お互い妙に馬が合うことに気が付いた。会場で見 た彼は、すらりと背が高くてとてもよく背広が似合っていた。白いけれど健康的な肌の色に、明るい色の髪。時々見せる意地の悪そうな笑顔に、学生の頃と変わらぬプレイ ボーイな雰囲気を漂わせていた。 お互い何かを感じたのだと思う。佐助とはそれから何度か飲みに行った。大衆酒屋であったこともあったし、小洒落たラウンジバーであったこともあった。何処へ行っても 彼は何でもそつなくこなす。甘いマスクと頗る女慣れしたその態度が相まって、彼は飛び切りいい男に見えた。だから何度食事に出かけても、私は無意味に客観的になって、 私なんかを誘わなくてもずっと綺麗で可愛らしい女が寄ってくるだろうに、と考えていた。 そんなふうだから、私は彼を悠々自適で何にも苦労を知らない男だと思っていた。それなのに、佐助は時折吃驚するくらい寂しい眼をする時があった。それはたとえば私と デートを楽しんでいる時であったり、遠くから私を見つめている時であったりした。なんだかとても情緒的で、それでいてとても理不尽な寂しさに包まれたその眼は酷く美しかった。 告白してきたその時も、佐助の眼は寂しい眼をしていた。はその眼が気に入って、彼からの交際の申し込みを受け取ったのだった。 それからは、よく覚えていない。お互いに気が付いたら二年がたち、そうして婚約を結んでいた。佐助は一流商社の営業であったから、私の親は手放しで喜んだ。周りの友人たち も、嫉妬と羨望の混ざった眼差しで私を祝福した。当時から誰もが放っておかない存在だった佐助と結婚することになったのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。 ウェイターが持ってきたウィスキーに口を着けながら、はただ茫然と佐助を見ていた。佐助はぽつぽつと感慨深げに何かを呟いているが、の耳にはあまりよく聞こえて こなかった。ただ時折佐助が同意を求めるように、と言いながら首を傾げるから、その度に、そうね、だの、わかるわ、などと相槌を打った。佐助は満足したように微笑む。 半兵衛は頗るリアリストで、それでいて酷くロマンチストだった。それは相反するものであるはずなのに、間違いなく彼の中で存在して、そうしてその不安定さが酷く魅力的だった 。利益の得られない人間関係などいらないと言いながら、彼は私を掻き抱き、秀吉に追従する。諦めようとして諦めきれずにもがき苦しみ、それを他人に見られるのを拒み続ける様は 、その容姿と相まってまるで揺らめく蝋燭の灯りのように儚げで美しかった。 は時折佐助との愛を育みながら、半兵衛のそんなようなことを思い出した。それで半兵衛ならここでこうするに違いないと考えて、けれど佐助のこういうところは好きよと思い 直した。 佐助は、半兵衛とはまるで違った。もう端から諦めていた。揺らめく蝋燭というよりは、何も考えずに灯し続ける白熱電球のようだった。この世の不条理を悟って、希望を破棄した 彼は軽薄で明るいにも関わらず、何処か影があった。彼の真上だけは、いつも少しだけ影がかかっている。 佐助はとうとう話すことをやめて、ただ黙々とウィスキーを啜りながらを見ていた。辺りの客はぽつぽつと帰り支度を始めている。佐助の眼はやっぱりどこか寂しげに見えた。 この時ばかりは、彼は揺らめく様な不安定な姿を見せる。それは、どこか半兵衛に似ていた。何かを得るために捨てて、そうしてその捨てたものに苦しめられる、そんな姿だった。 半兵衛は秀吉の経営する会社で重役を務めていた。あの若さで幹部にまで上り詰めた頭の切れる天才は、多くの雑誌や新聞で取り上げられ、本の出版をし、テレビに出ずっぱりの人 気者だった。儚げで女性のように美しい容姿はその人気を助長する。彼を見ない日はないと言っても過言ではなかった。テレビ越しの半兵衛は、やっぱり少し苦しそうだった。苦しそ うで不安定で、あの頃と変わらなかった。私の知っている半兵衛のまま。少しニヒルな微笑みも、柔らかな物腰も、さらりと笑顔で吐く毒も、どれも変わらない。 佐助は空になったグラスをテーブルに置くと、そろそろ帰ろうか、と言った。少しだけ遠い眼をしていて、その眼は苦しそうで不安定で、まるで半兵衛だった。その眼は半兵衛の 眼だった。私は少しだけ泣きそうになって、苦しさを緩和するために胸元のブラウスをくしゃりと掴んだ。立ち上がる佐助から目を離すことはなかった。ゆっくりと立ち上がりなが らも私を見つめ続ける佐助をずっと目で追った。ウェイターに声をかけ、胸ポケットから財布を出して、私に背を向けるその瞬間まで。 私はずっと前から気付いていたのだ。けれども気付かないふりをし続けてきたし、これからもずっとそうし続けるだろう。けれど今、まざまざと見せつけられたその事実に、どう しようもない気持ちでいっぱいだった。私はもう二度と実現し得ない可能性を追いかけられるほどロマンチストではなかったし、けれど完全にそれを捨てられるほどリアリストにも なれなかった。 半兵衛は半年前に死に、私たちは結婚を決めた。佐助の愛を受け、佐助を想い、私は佐助の中の半兵衛を愛し続ける。そしてそれに気づいて気づかぬふりをする愛しい佐助はまた、 どうしようもなく寂しい眼を私に向けるのである。 |