祭囃子が煩わしいばかりに辺りに響いていたが、果たしてこの室は不気味なほど静かであった。十畳ほどのこぢんまりとした座敷である。真新しい畳はつんと鼻に衝く匂いを放ち、 気持ちばかりに活けられた一輪の桔梗は床の間で閑寂に佇んでいた。女は床に腰を下ろして、ただただ音も立てずに佇んでいる。小さくて赤いふっくらとした唇は閉じられ、大きな 眼ばかりが憂鬱げに三成を見つめた。女は名をという。遊女である。は一端の遊女にあるまじき絢爛豪華な着物に身を包んでいた。が、不釣り合いにも髪は結い上げること もせず、ただ束ねて左肩に流されていた。顔色は青白く健康的とは言えない。頬ばかりが若さゆえの円みを帯びていた。

 三成は窓辺に腰かけて、何も言わずにを見た。そうしてその奥の床の間を見た。桔梗は大層な花器に活けられているのに、どうにも貧相に見える。枕元に置かれた古びた行灯 には蝋燭が置かれている。布団は煎餅のように薄いのに、敷布は絹のように滑らかである。三成はそれで、漸くこの室の違和感の正体に気が付いた。何処も彼処も不均衡なのである 。ちぐはぐなのである。が特に可笑しかった。その存在そのものが不均衡であった。見目だけの話ではない。すべてが、である。器量好しではあったが、傾国というほどではな い。才色兼備の美女というよりは、無知が愛らしい乙女というふうである。特別床上手という訳でもないようであった。それどころか、この室で閨事が行われた形跡すらない。けれ どもは確かに半兵衛様の寵愛を受けていたのである。

 事実は如何な物語よりも奇なものである。秀吉様に総てを捧げた半兵衛様は、しかしこんな女を囲っていた。贅の限りを尽くしたような贈り物をし、死際に態々文を残して気遣う ほどに執心していたのである。半兵衛様の文には、最後にこう記してあった。

『――僕はもう永くはない。けれども心残りといえば、秀吉の治めた日の本の国を見えることができないことくらいだ。ただ、ひとつだけ気がかりがある。ある茶屋の座敷に名をという遊女がある。彼女はきっと僕の死を知ることはない。けれどもそれはあんまりに不憫であるから、せめて僕の死を知らせてもらいたいのだ。何、ただ彼女の元に行けばい い。他は必要ないように計らっておいた。それに彼女も他を望みはしないだろう。君は疑惑の目を向けるに違いないが、深くは聞かずにいて欲しい――』

 遊女を見つけるのはそう難しくはなかった。という名の遊女は多くなかったし、半兵衛様が通っていたと伝えれば、皆すぐにこそこそと身を隠し、ひとつの茶屋を指差したか らだ。けれどもそんなことよりも、やはりこの文が気がかりであった。半兵衛様が死際に、秀吉様の他を想っていたことに少なからず衝撃を覚えたのは間違いない。裏切られたよう な錯覚さえ覚えるのだ。しかもそれが女とあっては、驚きを越えて疑問ばかりが浮かぶのである。

 というようなことを考えているうちに、気付けば辺りは日が落ちて、通りの提灯の光ばかりがちらちら見える程度になっていた。祭りの音はまだ止まない。三成ははっとなってを見たが、暗がりの中では大して姿は見えなかった。けれどもぼんやりと見える影は、先程から身じろぎすることもなく佇んでいるように見えた。蝋燭に火を灯そうとすらし ないのは不気味ですらあったが、三成は何も言わなかった。ただ違い棚に置かれた煙草盆から火種を拝借して、勝手に蝋燭に灯しただけである。

 蝋燭の火は室のほんの真中あたりを淡く照らす程度であったが、先程よりは随分との顔がよく見えた。風も吹かぬ夜である。蝋燭の火は揺らぐこともせず、ただぼんやり との影を映し出した。大きな目をぱちくりと動かして、何が不思議なのか首を傾げている。うっすらと開いた唇は何か言いたげであったが、声が零れることはなかった。三成は 逡巡してから徐にの前に腰を下ろした。薄い布団の端と端で、男と女が向かい合う姿は滑稽に他ならないが、三成はさして気に留めることはなかった。もまるで気にした ふうもなく、ただ眼ばかりを動かして三成を追っていたから、三成もまた何も言うことはなかった。

 蝋燭の火が三度強くなったり弱くなったりを繰り返したのを見てから、三成は漸くに声をかけた。といっても、まるで噛みつくような調子であるから、は肩を強張らせ て眼を揺らすばかりであった。それで、失敗したというふうに三成はしかめ面をした。それから一拍置いて「半兵衛様から使いを頼まれた」といった。

 はそれで、漸く三成と目を合わせると、何かを期待したような、それでいて諦めの付いたような顔をした。胸元で拳を握り締め、ほんの少しばかり腰を浮き上がらせて前の めりになっている。けれども立ち上がることはなく、また腰を落ち着けて袖に手を隠すと、今度は伏し目がちに三成を見た。言葉の続きを待っているようであった。

 「半兵衛様からはお前の元に向かえばいいとだけ託っている」
 三成はの振袖の熨斗模様の見事なのに目を向けて、抑揚も何もないようなぶっきらぼうな調子で言った。それで、もう用は済んだとばかりに立ち上がろうとして、の可笑 しいのに気が付いた。小さく肩を震わせて、俯いたまま動こうともしない。幽かに拳が握られたのを見た。ほんの少し皺のよった袖が影を落とす。蝋燭の光と皺との間にぽっかりと 影ができたのが、吸い込まれそうに黒い。の輪郭はぼんやりと照らされている。蝋燭の橙を映しこんでいるからか、ほんのりと赤みを帯びて見えた。黒髪は艶やかに輝いている。

 女と対峙していると、三成は往々にしてこのような場面に出くわすことがあった。何を思っているのか知れないが、ただ何も言わずに恨めしいような悲しいような、そんなふうな感 情をひしひしと訴えるのである。それでいて決して弱弱しくはなかった。何ともつかぬ重たいものを持ってして、梃子でも動かぬような固い意志を示すのである。 何時ぞやこんなことがあった。重臣の一人が戦で死んだ。秀吉様の盾になって死んだその男に、秀吉様は何故か甚く敬意を払った。それで、三成がその妻に死を知らせる任を仰せつかっ たのである。男の妻は三成を見るや否や何かを悟ったような顔をした。それで酷く優しげな、そうして憐れむような顔をした。三成はそれが不愉快であったが、敢えて何も言うことは なく、ただ事務的に事実を伝えただけだった。男の妻は袖を握り締めて少しばかり俯いた。それで何も言わない。ただあの何ともつかぬ感情の荒波をひしひしと訴えるのである。三成 は不愉快なのを通り越して苛立ちを覚えたのだが、この女を斬れば秀吉様が悲しまれると考えて、気を落ち着かせた。暫くそのままにしておくと、女は阿呆のようにそうですか、そう ですか、と繰り返した。それから三成の眼を見つめ、ありがとうございます、と言って頭を垂れた。眼は座っていた。丁寧に三つ指つく姿は凛として見えた。修羅のような強い何かを 携えていて、不覚にも三成は息を呑んだのである。

 目の前の女にも、そんなような片鱗があった。それで、もう一度腰を下ろしてを見た。は三成の一連の動作に気付いていないようであった。未だ肩を震わせたまま顔を上げよ うとしない。三成は早くの眼が見たいと思った。それで、あの時の強さの正体を知りたいと思った。そうすることで、半兵衛様が女を囲った理由を知れるような気がしたのである。 蝋燭は大分短くなって、揺ら揺らと揺らぎ始めたけれど、は顔を上げることも、何かを言うこともなった。三成は黙って待っていたけれど、愈々苛立って、おい、おい、と声を掛 けた。が、からの返事はない。三成は憤慨して粗暴に立ち上がった。それで、「貴様、何を考えている」と怒鳴りつけた。けれどもやはりは何も言わなかった。ただ真直ぐ正面を見つめるばかりである。その眼が憐れんでいるように見えるのが、一層三成を苛立たせた。

 「何か言ったらどうだ」
 三成はまた声を張り上げた。握り拳を固め、鼻息も荒く捲し立てても、やはりは何も言わない。三成は仕舞いにはその細い肩を掴み上げ、何か言え、と叫んでいた。それで無理やりに 顔を上げさせると、まじまじとの眼を見た。

 は三成の眼を見つめ返したが、その眼には恐怖も怒りも何も映ってはいなかった。とても大の男に掴みかかられたか弱い女の眼ではない。戦場に立つ武士のような覚悟と諦めの 混じり合ったような眼であった。三成はそれで、あの時の眼と似ているが、けれども違うものだと思った。女の持つこの強かさは果たしてどこから生まれるのかとも思った。けれども苛 立ちが収まったわけでもない。ここまでされても声一つ上げないに違和感と懸念を覚えたが、それでも三成はもう一度何か言え、と地を這うような低い声で凄んだ。

 はそれでも何も言わなかった。愈々三成も懸念が杞憂では終わらぬことを悟って、掴み上げた肩から手を離し、唖者かと訊ねた。そこで漸くは頷いたのである。

 は頷くばかりで顔を上げようとはしなかった。何かを隠すようにこそこそと俯くばかりである。三成はまた苛立たしげに舌を打った。のすることはどうも癇に障る。何故こん なにも癇に障るのか、三成も判然としなかった。よくいる女の一人である。ただそれが、半兵衛様のであるというだけなのである。けれども三成はいつも以上に不愉快で堪らなかった。 が、それならば早く帰ればよいと思っても、何故か気になってしまうのである。帰りあぐねてしまうのである。

 三成は眉間に作った深い皺を隠そうともせず、顔を上げろ、と今度は至極ゆっくりと、それでいて切れるような鋭さで言った。は一頻り躊躇して手遊びを繰り返した。そうして結 局は諦めたように、顔を上げたのである。

 三成の顔を見るために少しばかり上向きになった首筋に、蝋燭の光は淡く当たり、幼さの抜けぬですら、仄かな妖艶さを醸し出した。白く滑らかな肌は残暑にしっとりと汗ばんで いる。頬の円いのとは対照的な艶めかしさに、三成は女を感じてまた眉を顰めた。幽かに香り立つ女の香と、若さ故の甘さが混じり合って、不可思議で魅惑的な香を放っている。先程ま でいた女と、今目の前にいる女とでは、違う生き物であるようにすら感じた。けれどもの眼ばかりは、相も変わらず武士のような強かな光を放っている。その不均衡さは一種の媚薬 のように、自身をねっとりとした女で覆い尽くした。三成は思わず咽喉が鳴るほどの勢いで嚥下して、極まりが悪そうに視線を下げた。そうしてその首筋の不気味なのに気付いた。

 の咽喉には酷く大きな太刀傷が残されていた。何度も浅く切り付けられたような独特な傷口は、一般的な刀では決して出来ないような形をしている。戦も知らぬような若い女の 白い首筋に浮かぶ傷口は、傍から見ればぎょっとするほど不気味なものであった。見たものが三成でなかったら、この傷を人間が付けたなどとは到底思うまい。もう大分前のであるらしい 太刀傷は完全に閉じられていたが、三成には誰から受けたものなのか、大方見当がついていた。というよりは、この傷をつけられるのは半兵衛様しかいないのである。

 三成はそれで、酷く毒気を抜かれたような心持になって、それと同時に憐れで堪らないというような思いになった。この女の半生は、この太刀傷によって一瞬にして憐れで卑下すべき ものに変わったようであった。三成は何も言わなかった。ただ茫然と傷口を眺めながら、このような心持になることがまだあったことに幽かな驚きと、哀しさを覚えていた。それで、半 兵衛様が世を眺めるときの儚いのを思い出していた。あの眼は秀吉様の治める世に向けてではなく、この女のためであったかもしれない、とふと思ったのだ。

 三成が茫然と眺めるのを、はただ見つめ返していた。その眼には強かな光が宿っているのに、どうにも心はがらんどうであるように思えた。それは半兵衛様の死によって訪れた のか、それよりももっとずっと前からであったのかは知れない。ただ、三成にはその空洞が少しばかりわかるような気がした。当てのない強かさと、覚悟と、諦めは、この空虚の中に あって初めて混在しえる弱さであるように思えた。は唐突に左腕を持ち上げて、そっと口元を覆った。垂れた袖は首筋を隠して、太刀傷をすっぽりと覆い隠す。それでもは三 成を見つめ返していた。それで、幽かに微笑んだのである。

 三成はただ黙って街頭へ出た。もう金輪際ここに来ることもあるまい。この憐れな女の末路など、もう三成にはどうでもよいことであった。けれど も三成はただただの笑ったのを思い出した。幽かに細められた目の、滴るような狂いが忘れられなかった。儚いのに強かで、妖艶なのに幼い。ぞっとするような濃艶さに心中穏や かではいられなかった。祭りの露店も提灯も、もう一つも残ってはいなかった。人っ子一人いない寂びれた通りには、遠くの山の野犬の遠吠えが木霊しているばかりである。










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