鬱蒼と茂る木々は太陽の光を遮断して薄暗い。一陣の風すら今は吹いていない。此処は、酷く静かだ。佐助は辺りを見渡して、そうして神経を集中させた。何かが、 こちらを見ている。ひとつふたつではない。もっとたくさんの眼がこちらを見ている気配がする。獣のそれとも、忍のそれとも違う、温度のない眼だ。数丈先には目的の 家が建っている。こぢんまりとした質素な造りの建物は、森小屋と言ったほうが正しいのかもしれない。佐助は相変わらずだと少しほっとした。この辺りは、厄介な土地だ 。これくらい警戒心が強いほうがいい。佐助が森小屋に一歩近づくにつれ、眼は警戒心を増していく。そうして少しずつ近づいてくる。這うような眼は、じりじりと近づき、 牙をむく。ばたばたと音を立て木々から零れ落ちる。佐助が戸に手を掛けたとき、眼は佐助の周りを覆い尽くしていた。幽かな音は重なり合って、まるで大地が蠢くような音 を立てる。大量の蛇である。 「おやめ、彼はお客さんよ」 さて、どうしたもんか、と思案したとき、女が姿を現した。小屋の戸は開き、華奢な女が立ち尽くしている。蛇は一度動きを止めて、それから一斉に姿を消した。同時に森 の奥に消える蛇の群れは、まるで大河の流れのように見えた。ざわざわと鳴る音は不気味だ。本当の静寂が訪れるまでそう時間はかからなかったが、蛇は疑り深く鳴り続けて いた。女は優しく微笑んで、懐かしげに声を上げた。 「久しぶりねえ、佐助さん」 「久しぶり、半年ぶりくらいか」 「そうねえ、そんなもんかしら」 女は始終微笑んで、さあさ、お上がりなさいな、と佐助を招き入れた。擦り切れた草履がかさりと蛇のような音を立てた。それで、今日は何のお薬かしら、と尋ねて囲炉裏の 横で膝を崩す。女は年頃であるのに、まるで年寄りのような酷く地味な色の着物を着ていた。油色をもっとくすませた様な、何ともつかぬ色である。黒く長い髪も小汚い麻ひも で無造作に結われるばかりで、洒落っ気ひとつない。生白い肌はとても健康そうには見えない。細い手首は今にも折れてしまいそうであった。けれどよく見ると端正な顔つきを している。すらりと通った鼻筋は理知的であったし、ぷっくりと膨らんだ唇は可愛らしい。眼は閉じられていて見えなかった。女は名を、と呼んだ。 「いつものやつ頼むよ」 佐助は囲炉裏を挟むようにの前へと腰を下ろした。がたりと大きな音をたてて、囲炉裏の釜が大きく揺れる。はぴくりと反応して、けれどさして気にする様子もなく、 壁一面を埋め尽くすように備え付けられた百味?笥から、引出しの一つを慣れた手つきで引き出して膝の上に置いた。この森小屋は、外見とは違い随分と居心地がよかった。土間 と、囲炉裏のある部屋と、水場と寝床しかない酷く簡素な作りではあったが、生活するにも仕事をするにも何の問題もないようになっている。特に囲炉裏のある部屋は、客人の興 味をそそった。壁一面を覆う百味?笥の引出しは優に百を超えているように見えた。は引出しからふたつみっつ包を取り出すと、顔を上げた。囲炉裏の向こうのの眼は、 けれども佐助を映してはいない。 「おいくつお持ちになりますか」 「そうだな、じゃあ三つもらおうかねえ」 佐助は懐からずっしりと重たい巾着を取り出して、そのままに差し出した。はそれを受け取ると、かちかちと音を立てながら、手指で撫でるように確認して銭を数えた。 それで、ゆっくりと小判を三枚取り出して懐に仕舞う。佐助は全部貰っていいのにと怪訝な顔をして見せたが、は目を合わせずに少し微笑むだけで、巾着を佐助に返すのだ った。 「また、解毒剤はよろしいのですか」 は探るように壁一面の引出しに手を這わせながら言った。さわさわと揺れる手は少しばかり蛇を思わせるような、変則的な動き方をする。生白いのがまた艶めかしい。 の手はぽっかりと空いた穴を見つけるとぴたりと止まった。そうして引出しをもとの位置に戻すと改めて佐助に向き直る。 「解毒剤はまだあるから、またなくなったらもらうよ」 「そうですか、ならいいのですがね、」 はそこで一旦切って、けれどもこれは大分強い毒ですから、気を付けてくださいね、と続けた。小さな紙切れで包まれた薬をみっつ、そっと佐助の手の中に落として、念を押すよ うにお気をつけてね、とまた言う。どこからともなく現れた蛇が、の左腕に巻き付いて、ずるずると這うようにしての腕を上っていた。蛇は逐一細くてちろちろと震える舌を出 す。それで、赤い眼を佐助に向ける。まるで蛇までもが念を押しているようであった。 の作る薬はどれも随一のものである。どこへ行っても治らなかった大病が、彼女の薬で瞬く間に良くなったというような話はよく聞いた。それで、そのたんびに彼女の薬を手に 入れて、調べたりもしたものだった。忍の佐助ですら見たこともないようなものばかりで、驚いたものだ。の薬が蛇毒からできていると気付いたのは、ちょうど五年ほど前の話で ある。たまたま手に入れた彼女の薬が、佐助が作るものと同じであったから、漸くそれが蛇毒であると知ったのである。ちょうどその頃、同郷の忍が蛇のよく出る山を見つけたと漏ら しているのを思い出して、佐助は気の向くままにその山へ来た。それが、此処である。 初めて森小屋の前に来たときは、その不気味さによっぽど警戒したものだった。辺りをぐるりと囲むように眼に覆われては不気味なほかない。それが忍でも獣でもないとなれば尚更 である。けれども一番に驚いたのはにであった。忍として、枯葉が落ちるほどの音すら立てていないというのに、彼女は戸を開けることもせずに、お客さんかしら、と声を掛けて きたのだ。彼女は返事を待つように、それからしばらく小屋から出てこなかった。佐助はというと、あまりの出来事に動けずにいたのである。が小屋から出てきたのは、佐助が一 寸落ち着いて、周りの眼の正体が蛇であると気付いた頃であった。 「お客さんよねえ、やっぱり」 彼女はすこしばかり天を仰いで、あちらこちらに顔を向けながら言った。彼女の眼はすこしも佐助に向けられることはなかったが、彼女はまるで佐助をその眼に映しているようであっ た。その姿はやはり不気味である。佐助は元来警戒心の強い性質であったし、まだ若い身なりであったから、息を吐くことすら憚られるほどに動けずにいた。はその時から、地味 な年寄りくさい着物を着ていた。佐助といくつも歳は違わないのに、町の娘のような華やかさも、若々しさもなかった。けれども老けているとも違う。同郷の女忍とも違った。浮世離 れしたというのが、もっとも近いような気がしたが、それともどこか違った気がした。 「随分用心深い狐さんねえ、こっちおいでなさいな」 彼女はそう言って、手招きをひとつした。揺れる袖を右手で押さえて、彼女はそこでようやっと佐助に顔を向けた。それで、佐助ははっとなったのである。彼女の瞼は閉じられたまま であった。眼は瞼の下で動く気配すらない。は目くらであった。佐助は急に自分の中の何かが落ち着くのを感じた。それで、彼女に漸を追って歩み寄ったのである。 その時から、の周りには蛇がいた。それも、一匹二匹ではない。数えきれぬほどの蛇が、恰も彼女の眼になるように佇んでいるのである。能くもまあ集めたものだと思った。 これだけに囲まれて何とも思わないのは、やはり目くらだからかとも思った。けれどもそれが間違いであったことは、と長きに付き合ってみて理解した。彼女にとって蛇は眼で あり、親であり、そうして自らの生きる術と道を与えた、ある種恩師のような不可思議な存在であるようだった。それは今でも変わらぬようであった。腕に巻き付いた蛇は決して佐 助から赤い眼を逸らそうとはしない。それは彼女の意思そのものであるように思えた。 続く静寂の中で、青嵐が簡素な戸をがたがたと揺らした。途端に佐助は居心地が悪くなって、別段興味もないけれども仕方なしに声を上げた。 「ねえ、どんな客がの薬買いに来るのさ」 は佐助を視続けていた。決して目玉を動かすことなくすこしばかり微笑んで、哀しいのか、嬉しいのか、わからぬような顔をする。どこか諭したような面持ちは僅かに佐助を苛立 たせた。焦燥にも似た心持だった。なんとなく落ち着かない。 「そうねえ、お医者様が多いかしら、あと、忍の方も来るわねえ」 はゆるりと笑って見せた。腕の蛇はちろちろと舌を揺らしている。佐助は変わらずに飄々としていたけれども、実のところはなんて意地が悪いのだと考えていた。 佐助が忍であることを、には伝えていない。が、この調子ではきっと知れているのだろうと思った。は相も変わらず微笑んでいる。そうして舌の先をすこしばかり出して、 ぺろりと唇を一度きり嘗めた。生白い肌に真赤な舌が眼に痛い。純朴な姿とは対照的な、挑発するような姿である。の代わりに蛇が身じろいだ。 「へえ、忍なんか来るの。じゃあ殺しに使われてるかもしれないねえ、の薬」 佐助はわざとらしく勿体ぶってそう言った。すこしの八つ当たりと悪戯心からである。けれどはさして気にしたふうもなく、そうねえ、と言った。 「そうかもしれないわねえ」 「いいの、それで?自分の薬で人が死ぬんだよ」 佐助はやっぱり飄々として笑った。どこか退廃的な面持ちであった。生まれ持っての忍の性なのか、佐助は偽善的な姿を滑稽だと思う性質があった。が、彼女の発言には若い女にあ りがちのそれがない。けれどもきっと鎌を掛ければぼろが出ると思った。佐助は胡坐をかいた膝に右肘を乗せて、またその上に顎を乗せた。すこしばかり蛇との距離が近づいたけれ ど、蛇が目を逸らすことはなかった。 「けれど忍は生きるでしょう。ならそれで、いいじゃない」 はそこで初めて佐助から目を逸らした。右手を床につき、未だかたかたと揺れる戸に顔を向けて、忍が死んだら承知しないわ、と言った。寄せられた眉が、上がった口角とは対照 的に寂しげに見えた。蛇は気付けば姿を消していた。佐助は何と返したらよいか考えていたけれども、何も言わないことが正解であるような気がして、ただ黙りこくっていた。それで、 結わえられた黒髪の隙間から覗く項を見ていた。自分の考えていたことが、酷く馬鹿げているように感じられて、興が醒めたというような、きまりが悪いというような、何ともつかぬ悶 々とした心持になった。それで、彼女の言葉の真意を垣間見て、考えあぐねるばかりであった。 佐助はに会うと大抵調子が崩されるのだけども、今回ばかりはそれで済まされるようなものではないような気がした。此処に来ると、まだ自分にはこんなにも感情があったのだと 感心させられるのだが、それと共に危機感をも佐助に与えた。忍に感情など、在ってはならないのである。それでも、自らの仕える将はよっぽどおかしな人間であったから、忍に感情を 求める。そのうちに大分柔和にはなったけれども、それはそういう顔を持ったというようなことであって、内に秘めるものは大きく変わってはいなかった。 けれどもはそうはいかない。絶対に入られてはならない内の中に、存外にあっさりと侵入してくるのである。旦那に仕え始めてできた、蟻の巣のような小さな穴から、気付けば蛇 のようにぬらりと入り込み、佐助の中の感情を撫でる。その手つきは至極穏やかで優しく、包み込むようであった。そうして佐助が気付くころには、もう大きな穴となっているのである 。佐助は内側から心臓を鷲掴みされたような息苦しさを感じた。どくどくと鼓動を打つ心臓の音が、頭の中に木霊して、耳元で鐘が鳴るように響いた。戦場でも感じたことがないような 圧迫感でありながら、酷く心地がいいことに慄いた。 佐助はそんなようなことを考えていたけれど、決してそれを顔に出すことはなかった。ただにこにこと阿呆のように笑って見せただけである。目くらのに、果たして意味があるの かはわからないが、これはもう病気の一種のようなものであった。 気付けばは佐助に顔を向けていた。けれどただそれだけで、何を言うでもなく佇んでいる。眉間の皺は収まって、ただ穏やかに微笑んでいた。右手は膝の上で左手に覆い被さり、 指を弄んでいる。不健康そうな生白い手であったが、酷く綺麗であった。薄い爪は薄桃色に色づいている。それはの唇の色と同じであるように見えた。ふっくらとしたそれは、すこ しの唾で潤んでいた。佐助は膝に乗せていた腕を退けて、居住まいをすこし正した。それで、俺様そろそろ行こうかな、と言った。何も気づいていないというふうな、軽い口ぶりで言っ てのけたが、は頷くばかりであった。それがまたすこし物悲しげに見える。けれど佐助はどうすることもなかった。囲炉裏越しに佇むは酷く小さく弱弱しく見えた。 今度は囲炉裏の釜に当たることもなく、佐助はするりと立ち上がり、そうしてゆっくりと土間へと降りた。は佐助が座っていたほうに、ずっと顔を向けたままである。手弄 りはもう止んでいた。佐助は一度だけに振り返り、けれど何も言わずに外に出た。戸は佐助の手でもって幽かな音すら立てずに開いていた。木々の隙間から幽かに漏れ出た陽光すら 今はない。思いのほか過ぎた時の永さを物語っていた。 「佐助さん、またいらしてね」 開け放たれた戸の向こうから、の穏やかな声がした。待っています、と続けられた声は佐助の耳を優しく湿らし、落ち着いていた鼓動をまた一つ大きく鳴らした。 |