週末の割に空いた日だった。カウンターとテーブルが二つのこぢんまりとしたバーに、客は俺ともう一人、若い女性がいるだけだった。 マスターはグラスを端正に磨きながら、有線から流れる懐かしいメロディに耳を傾けている。グラスに残った十二年物のウィスキーを傾けながら、 俺はただ無言のままに物思いに耽っていた。それは一人の時間を楽しむというよりは、話し相手のいないつまらない空間を過ごしていたに近い。 「今日は落ち着いていますね」最初に口を開いたのは女であった。俺に話しかけたのかと、一度顔を上げて、それが間違えであることに気付いた。 彼女はマスターを見ていた。「そうですね、給料日前だからかな」マスターは笑いながら答えた。そうしてこうも続けた「珍しく伊達さんも今日は一人ですからね」 突然の振りは俺を気遣ってのものに違いない。この男は見ていないようで見ているのだ。流石、バーテンダーと言うところだろうか。俺は自然な動作で女に視線を向けた。 それは、マスターの一言で何の違和感も厭らしさもなく、その場に溶け込んでいた。「俺だってたまには一人で飲みたい時ぐらいあるさ」彼女に向けたのか、 マスターに向けたのか、その言葉に深い意味はない。しかし、その一言で女と話すタイミングは出来上がっていた。 女は思っていたよりずっと若かった。美しいというよりは可愛らしく、まだあどけなさが残る顔には、けれど凛とした雰囲気もある。あと五つも年を取れば、 驚くほどに美しい女性になるだろう。女は俺の言葉に耳を傾けながら、真剣そうなそぶりをして微笑んで見せた。その大人ぶった姿がまた可愛らしさを助長する。 俺の周りで媚び諂う女とは、少し違う。対等であろうとする姿はいい。俺も心地いい気分になって話していた。程よく回った酒がまたいい。 高すぎない女の声もちょうどよかった。若い割にはしっかりとした語り口調も好感が持てる。一杯ごちそうするというと、彼女は喜んで受け取った。 そこに男への警戒心は感じられなかった。 女は思っていたより酒が強かった。あの一杯を皮切りに進めるたびに酒を飲んだが、真っ白な頬が朱に染まることはない。けれど微かに変わった雰囲気は、 どこか妖艶な空気を漂わせていた。「そういえば、名前聞いてなかったな」俺の言葉に女は小さく声を漏らしてはにかみながら言った。「です」 「oh yes 、か」俺は口に出して反芻した。これから自分が頂戴する女の名だ、このひと時くらいは覚えてやらないといけない。自慢じゃないが、 俺は女に苦労はしていない。ましてやこんな青臭い女を抱かなくても、いくらでも色気のある女はいるのだ。だが、時にはいい。若い女はそれだけで価値がある。 思案する顔が不安げに見えたのか、女は覗き込むように俺を見ていた。潤んだ目が、どこか物欲しげに見える。服越しの肩に触れる手も、どことなく夜を孕んでいる。 カウンターの下で手を握った。女は何も言わず指を絡めてくる。こんなところに一人で飲みに来る女だ。歳など関係ないのだろう。何かを悟ったような目には、 幼さと女が混ざり合った、何とも言えない不安定な美しさがあった。間違いなく誘っている眼だ。其れは決して隠すつもりのない、 わかりやすいほど真直ぐな情欲。若さゆえに許される、可愛らしささえ感じる劣情。 手を握りしめ、指で弄びながら、まじまじと女の顔を覗き込んだ。若い割に男に慣れたようなたたずまいをしている。微かに感じる濃艶な色香。 それでいて、まだどこか世間知らずな、未知の世界に憧れる少女のような匂いが漂っていた。その不釣り合いなアンバランスさが、酷く魅力的だった。 一人前の女のような素振りで、彼女は俺の唇を見つめていた。そうしていて時たま目が合うと、彼女は可愛らしく微笑む。マスターがバックヤードに引っ込んだのを、 目の端に捉えて、俺は何事もないように女の唇に口づけをした。彼女はただ微笑み続けている。それはただその夜を了承する女の姿だった。それから何度か唇を重ねた。 触れる舌が厭らしい。しかしそのたびに、どこか拍子抜けしたような虚無感が俺を襲った。結局は、今までの女とさして変わらないのだ。もう名前すら曖昧にしか思い出せなかった。 このままホテルに行って、女が起きる前に帰ろう。それでいい。 立ち上がろうと手を放した。財布に手をかけて、女に目で合図を送る。けれどその行動は、虚しく空を切って終わった。この一瞬の間に、 女はもう俺を見てはいなかったのだ。そうして今までの姿が嘘のように、凛とした、全てに興味がなさそうな、そんな目をしてグラスを傾けた。 それはあまりに突然で、そうしてとても考えられないような行動であった。「あんた、まだいるのか?」圧倒されて、つい口をついて出たのは、 まるで俺が彼女を求めているかのような情けない言葉だった。女はその言葉で初めて俺に気付いたような顔をした。「そうね、もうすぐ帰りますよ」時計に目を向けて彼女は言った。 それは本当に、今までの姿からは想像もつかないほどこざっぱりとした姿だった。あの、明らかに俺を誘っていた姿は夢だったのだろうかと疑いたくなるほどに。 果たして今までにこんな女はいただろうか。俺に対して、こんなにもつまらなそうな目をする女が。グラスを持ったその細い指は、間違いなく俺が手にしていたそれであった。 けれど今は別の生き物のように、ただ華奢なカクテルグラスを弄んでいる。その唇さえも、まるで何も知らない少女の唇のように、その柔らかさを強調しながら、艶めいていた。 「俺は伊達政宗だ、もう一度、名前を聞いていいか?」知らずのうちに俺はもう一度名を聞いていた。そうして自ら名を名乗っていた。それは当然のことでありながら、 初めてのことであった。そうでもして、彼女の目を俺に向けたかった。彼女は微笑んだ。「そう、政宗さんね」そうして、当然のように立ち上がって俺に背を向けた。気づいたら、 彼女はもう会計を済ませていた。「おい、」「、よ」扉に手をかけて彼女は言った。「二度も言わせないで」 女の消えた扉を見つめながら、俺はただ茫然と立ち尽くしていた。そうして決して忘れることのない彼女の名前を口の中で反芻し続けた。 次に会うのはいつになるのだろうか。あの、猫のような目を自分のものにするには一体どうすればよいのだろうか。初恋の少年のように、 ただただもどかしさだけを膨らませて、俺は自嘲気味の笑みを浮かべていた。 |