人を好きだと思うことがこんなにも苦しいとは思わなかった。お前との距離が酷 くもどかしい。お前の華奢な手すら握り締めることができない俺の手が酷く歯痒 い。それでも、どこか愉しんでいる自分がいた。の隣に立てない自分が煩わ しいのに、どこか、もっとずっと奥深いところで俺はそれを心地よく思っている のだ。の名を呼ぶのは容易かった。けれど、それに想いを重ねるのは頗る難 しかった。、と名を呼ぶ度にあいつは漣の如く軽やかに俺をかわし続けるか らだ。その軽やかさは浮き雲にも似ていた。それから、野良猫にも似ている。 「、」 の名を呼ぶのは容易い。けれど今日ばかりは俺の声は震えていた。この、甘 くて苦くて少し痛い距離は恐ろしく居心地が良いけれど、しかし、それを埋めた いという好奇心と願望に、俺は駆り立てられてしまったからだった。振り返ったは 眩しげに目を細めていた。最近、頓にはこんな表情をする。そうして 俺はその度僅かな懐かしさと焦燥感に駆られて、居た堪れなくなった。 「、好きだ」 しん、と静まり返った空間に、驚くほど単調な俺の声は響くことなく飲み込まれ た。燦々と降り注ぐ陽光は振り向いたまま微笑みを返すを包み、実に美しく 、そうして幻想的に、まるで一枚の絵画のようにを映し出していた。息を呑 むほどの美しさだった。を中心に時が止まっていた。音も、風も、すべてが その美しさに惚けている。我に返った俺はもう一度名を呼んだ。。かすれた 声しか出なかった。僅か数歩先のにですらはっきりと聞こえないような声だ 。は未だに動くことなくただ只管に俺を見ている。幽かにそよぐ風が首筋の 汗を撫ぜる。の唇が何かを紡ごうと薄く開いた。喉を掻き毟りたくなるよう な切望の中にいて、俺は酷く満たされていた。蝉が一斉に鳴き始める。アスファ ルトから上る陽炎が、足元を歪める。の唇は小さく、けれどはっきりと言葉 を紡いだ。あれは、そう、求め続けた言葉だ。心地よいと思いながらも、只管追 い続け、求め続けた、言葉。 そのあとはまるで映画のワンシーンのようだった。 は今までで一番の笑顔を俺に向けていた。そうして今度は大きな声で私もと 言った。堪らなかった。今までの心地よさなど忘れてしまうほど、恍惚とした思 いに満たされていた。それ程の距離もないのに小走りに近づいてくるが愛し かった。堪らない。もう何もいらない。が、いる。俺は気づかずうちに握り しめていた拳を開いた。汗ばんだ掌を制服で拭った。あと、五歩。蝉の鳴き声は 未だ鳴き止まない。風は、ない。は微笑んでいる。四歩、三歩、二歩。手を 広げた。そのとき俺は最高に幸せだった。視界にはしかいない。だけが 俺を満たす。それがすべてで、それだけでよかった。息を呑んだ。が優しく 微笑んでいた。あと少しで、は俺のものになる。 瞬きを一つした。がいなかった。何故、視界をトラックが埋めているのか理解 できなかった。何故、が俺の腕の中にいないのか、理解できなかった。ただ 、右目がじくじくと疼いて、酷く熱かった。それから、蝉が一斉に鳴くのを止め た。それだけだ。 |